コーダ☆マインド

耳の聞こえない親を持つ聞こえるシオンが考える、コーダのことや手話のこと。

コーダの私が手話通訳者になるまで その3

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手話通訳者養成講座「上級基本課程」

4年目は、もう一度「手話通訳養成講座 上級基本課程」に申し込みをしました。
昨年度と同じレベルの講座ですが、内容は全く同じではなかったので、
「こんどこそこの講座は修了しよう!」と意気込み、この年は頑張りました。

ポイント ▶ 4年目「上級基本課程」に通って修了証書をもらう!

手話サークル

この頃の私はかつてないくらい精力的に活動をし、手話を身に付けていきました。
手話サークルに初めて入会してみたのもこの頃です。
手話を学ぶなら手話サークルに入るというのはこの業界での常識のようですが、私はそれまで手話サークルに良いイメージを持っていませんでした。
何度か父(ろう者)のいる手話サークルに行ってみたことはあるのですが、つまらなかった印象しか残っていません。ごめんなさい。
それと、コーダならではの手話サークルに行きにくい理由があるのですが、それについては別記事をご覧ください。

ポイント ▶ 地域の手話サークルに入ろう!

手話サークルではろう者と手話で話すのが楽しみになりました。
この頃は、ろう者ともよく出かけたりもし、楽しくて楽しくて仕方のない時期だったのを思い出します。
ろう者が参加している飲み会にも積極的に参加しました。
そして、ろう協(聴覚障害者協会)の旅行へも参加しました。
この時には、バスの中でろう者へ手話通訳をすることの大変さを初めて目にしました。
これはこの旅行に行っていなかったら気がつかなかった視点です。
それから、歩きながらや買い物をしながらろう者と手話で会話するということも、講座や普段のサークル活動では経験できないことです。

ポイント ▶ ろう者と一緒に遊ぶ。

聴覚障害者イベントへ積極的に参加

ろう協主催のイベントへもどんどん参加しました。
県の聴覚障害者大会へは必ず参加(講座のカリキュラムに組み込まれていました)し、耳の日フェスティバルでは実行委員(要員)もやりました。
実際に聞こえない人や手話通訳者と一緒の会議も参加しました。
分からないながらも取り組んでみるといろいろなことが体験でき、少しずつ分かってきます。

ポイント ▶ 聴覚障害者大会や耳の日フェスティバルへ要員として参加。

全国手話検定試験を受験

私の頭の片隅には「手話通訳者試験を受けたい!」という想いがいつでもありました。
でも、この頃の自分の実力ではまだまだ試験は受けることができないと感じていた私は、ここでようやく「全国手話検定試験」を受験することにしました。
私にとっては初めての手話に関する試験です。
(手話に関する試験については、今後改めて記事を書く予定です)
初めてなのにいきなり、「準1級」を受験しました。
1級に挑戦しても良かったのですが、1級は小論文を書かなければならず、それは避けたい…という思いからの準1級です。

kentei.com-sagano.com

10月に受験し、確かクリスマスイブあたりに通知が郵便で届きました。

無事に合格。

ポイント ▶ 全国手話検定試験で力試し!

人との出会いを大切に

実はこの4年目にさしかかる頃に、大切な出会いがありました。
それは、私にとって人生の転機となる出会いでした。

東京からあるろう者(有名人)が講演をしにやってきたのですが、そのろう者は専属で手話通訳者を同行してきました。
その通訳者は私と同年代のコーダ(男性)でした。
彼の真摯な通訳ぶりと、決して背伸びしないありのままの通訳ぶりに私は心を打たれたのです。
それまでに全く見たことが無いタイプの通訳手話通訳者でした。
それまでの私は「手話通訳者」という形にだけとらわれていて、「手話通訳者」という形になりきらなければならないと思い込んでいました。
自分がそれになるのは無理だと感じていたのです。
でも実際は、自分の持つ知識や技術を用いて分かりやすく伝えることが何よりも大切なのだと、その時に初めて分かりました。
そのコーダとは、今では時々連絡を取り合う仲です。
このときのことを話すと彼は謙遜するのですが、この出会いが無ければ今の私はありません。
本当に感謝しています。

ポイント ▶ 人との出会いが大切。

この年は本当に多くの人との出会いがありました。
仕事(小学校勤務)も本当に大変で、よく体力が続いたなと思います。
正に無我夢中でした。

怒涛の日々の中、4年目は過ぎ去っていき、いよいよ手話を学び出してから5年目に突入します。

つづく。

<この記事は2020年6月に書いたものを編集しています>

codamind.hatenablog.jp