コーダが自分の気持ちを抑え込んでしまう理由
コーダで集まり、話し合う場所に時々参加することがあります。
(コロナ禍で現在は直接会えませんが)
その際ふとしたときに、
「自分ががまんすればいいんだ」
「私の考えは言わなくていいや」
「私がここにいてはいけないのかな」
というようなことをコーダたちは考えているのでは…、と雰囲気で感じることがあります。
あくまでも「雰囲気」なので、私が勝手にそう感じているだけかも……と思い、話し合いが終わった後に個人的に話をしてみると、やはりそのように思っていたと言うコーダがちらほら。
なぜそういう考え方になってしまうのだろう。
私は考えました。
- 聞こえない親に声で言っても聞こえなくて伝わらない。
- 聞こえない親に頑張って口話や手話で伝えるんだけど結局伝わらない。
- 親(ろう者)の理解の仕方が、こちらの意図したものと違ってしまう。
コーダは「自分の言う事が伝わらない」という経験を幼い頃から経験してきています。
一番分かって欲しい親に伝わらない経験です。
- どうせ伝わらないと言う前から思ってしまう。
- 伝える事自体を諦めてしまう。
- 自分の意見を通そうという気持ちが失せる。
- 自分の気持ちを伝えることすらしなくなる。
コーダの親である聞こえない親は、「コミュニケーション障害」を抱えて生きています。
個人差はありますが、「人に伝える」ということをあまり積極的にしないろう者も中にはいます。
「伝えようか?」とコーダが言っても、「いい」という顔をし、
「聞こえないから分からない。言ってもどうせ分からない。」
伝わらない・分からないという経験ばかりしてきている聞こえない親の悲しい気持ちがコーダに染み込む瞬間です。
諦めてはいないのでしょうけれど、そばで見ていて、人と気持ちを伝え合ったり意見交換したりということを避けているように感じることがあります。
「どうせ分かってもらえない」
この考え方は、根深い。
しっかりコーダも受け継いでいるように私は感じています(全員ではないですが)。
分かってもらったり、気持ちを受け止めてもらったりする経験って人間にとってとても大事だと思うのです。
私には話ができる人、気持ちを受け止めてくれる場所など、子どものころはおろか、20歳すぎてもどこにもありませんでした。
しかし、私はコーダたちと出会うことができました。
自分と同じような境遇で生きてきて、同じような気持ちを抱えながら生きてきたコーダたちに。
せっかく出会えたコーダたちとの話し合いの場所でも、自分の意見を言うということがなかなかできないコーダがいます。
知り合って何年も経っているのに、何度も会っているのに、遠慮がち。
何て勿体無い!!!!!
ちなみにコーダたちが話し合う時は、みんな声(音声日本語)で喋り、耳で聞きますが、時折意味を確認するときや、リアクションをとるときなどは手話も活用します。
楽しい楽しいコーダたちとの時間。
ぽつりぽつりと本音が出てくると、ようやくみんな自分の気持ちを話し始めます。
「私のことばが伝わってるんだ……」
伝わる感覚、分かり合える感覚。
なんで諦めてしまっていたんでしょうか。
なんで話さなかったのでしょうか。
話さないと伝わらないのです。
話してくれないと分かりたくても分からないのです。
「前に言ったのに!!」
そういうこともあるかもしれないけれど、話した相手には伝わっていたのでしょうか。相手はしっかり理解したのでしょうか。
何度も何度も繰り返し確認し合うことも大切なのではないでしょうか。
ろう者(聴覚障害者)のコミュニケーション障害については注目されますが、その影響を受け、コーダもまたコミュニケーション障害を抱えている場合があるのです。
コーダは聞こえて喋れるから大丈夫なんてことはありません。
もしかしたら、コーダによっては手話の方が自分の気持ちや考えを話しやすいのに、日本語で伝えなければならず、苦しい思いをしている場合だってあります。
「手話なら言えるのに……」と。
また、コーダ自身も「伝えること」に意識を強く持った方がいい場面があるのかもしれません。
私はコーダの話はもっと聞きたいと思っています。
たくさん語って欲しいといつも思っています。
私以外のコーダがどんな想いを抱えていて、どんな風に考えているのか知りたいのです。
そこには必ず、コーダにとって、自分にとってのヒントがあるからです。
コーダは私ではない、コーダは私たちである。
CODA is not ME. CODA is we.
目下の目標は「話しやすい雰囲気づくり」(*^^*)
「伝わることの難しさ」と「伝わりあえることのうれしさ」を誰よりも知っているコーダたちに、私は可能性しか感じません。
<この記事は2020年6月に書いたものを編集したものです>