コーダ☆マインド

耳の聞こえない親を持つ聞こえるシオンが考える、コーダのことや手話のこと。

【ろう児教育支援6】聞きながらの作業はできない

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小学校の1年生と2年生には理科の授業はありません。
社会もありません。
そのかわりに、社会と理科をミックスしたような「せいかつか」という授業があります。
1年生は農園にサツマイモの苗を植えるのですが、こういう作業は本当に困りま。した。
誰がって、私がです。
子どもたちはいつでも何をするのも楽しそうなのが憎いくらいでした。
学校生活は主に出席番号順で行動します。
それがやっかいなのです。
聞こえる子どもたちと一緒にどんどん行ってしまうふたり。

「待て待て待てっ!」

待てと声で言ってももちろんふたりには聞こえません。
ふたりの肩をつかんで呼びます。
私(手話):「あなたたち、先生の指示が聞こえないでしょう!!」
ろう児:「えー、なんでー!?フミコ先生、出席番号順って言ってたよー?」
フミコ先生は1年2組の担任の先生です。
聞こえにくい(または聞こえていない)のに、ふたりは私が通訳しなくても情報をよくつかみ、知っていました。
私(手話):「手話ちゃんと見なさいよっ!」
私が何か言ったところで、1年生(6才)には無理な話です。
自分の思うがままにどんどん動き、あげく兄弟ゲンカがはじまるのがいつものパターンでした。
そう、双子はあまり仲が良くありませんでした。
似たような自分がもうひとりいるからなのか、常に対抗心を燃やすふたり。
ふたりいるからこそ手話で会話ができるのに。
そううまくはいきません。
(誤解を招きたくないので書きますが、ものすごく仲が悪いわけでもないです。)

場所は農園、畑です。
学校の校舎の北側に農園がありました。
農園のまわりも、桃や柿などの畑でした。
作業中、手は土まみれ、泥まみれ。
聞こえる子たちと違うこと。
それは、『耳で聞きながらの手作業ができない』ということ。
作業しながら音声で会話することができません。
手話をしようにも、肝心の両手はサツマイモの苗を植える作業で塞がっているのです。
二人は口を大きく動かし、声も出し、なんとか会話しようとしていましたが、まったく伝わり合えず、どちらも怒っていました。

「何言ってるか分からん!」

そりゃあそうでしょう。
私は半ば呆れながら、ふたりの様子を見ていました。

他の聞こえる子どもたちと交わっていると、当たり前ですが普通の子どもです。
本人たちも、聞こえる子どもたちと同じような気持ちで過ごしています。
聞こえる子どもたちと同じような気持ちでいても勿論いいのですが、肝心なことを忘れてもらっては困ります。
耳が聞こえないということ。
ふたりは指示を聞くときは作業を中断し、顔を上げ、私の手話を見なければなりませんでした。
他の聞こえる子どもたちは、作業をしながら先生や友人たちと目を合わせずとも会話し、どんどん作業を進めていました。
声は360度、あらゆる角度からやりとりできますが、手話はそういうわけにはいきません。
さらに、しゃがんで土をいじっているので、いちいち大変でした。
大勢の他の子どもが作業を進める中で、私はどうにかふたりから見える位置に入り込み、手話をして伝えました。
ふたりが作業するときは、手話での指示を見て理解してからで無いと当然できませんでした。
何度も書きますが、『聞きながらの作業』はろう児にはできません。
場所が変わろうともどんなときでも、『聞きながらの作業』はできません。
そして、大人になってもそれはできません。
耳が聞こえないということは、重要な情報を知るチャンスを失うこともあります。
ろう児に代わって私が耳で聞き、即座に手話に変換し、ろう児の視界に入り、伝えました。
目に見えない音声を、目に見える手話に変えて、彼らに見せて伝えてきました。
私が聞きもらしたり聞き間違えたりしたままに伝えると、ろう児が間違った行動をすることになります。
責任重大でした。

手話で伝えることの難しさを誰にも理解されない環境で、私は農園だろうと、教室だろうと、校庭だろうと、体育館だろうと、ふたりのろう児のために手話をし続けました。
通常の手話通訳では考えられない環境でした。
聞こえる子どもがそばで大声で騒いでいるときもあります。
落ち着きなく動いているときもあります。
なんなら、ろう児よりも作業の遅れている聞こえる子に手を貸す場面だってあります。
あげく、手話通訳をしている真っ最中でも聞こえる子に「先生~~」と、話しかけられるのです。
しかし私は、どんな時でも日本語と手話の確認(インプット)を怠りませんでした。
何をするにも、聞こえる子よりも時間がかかります。
「情報を理解する時間」と「作業する時間」が別々に必要だからです。
しかし、与えられた時間は聞こえる子どもたちと平等にしかありません。
作業が終わればまた出席番号順に並んで教室に帰るのです。

「ギャー!虫ー!!」

虫と聞けば子どもは寄ってたかります。
ろう児もいつでも寄ってたかりました。
ふたりはいつも聞こえる子どもたちと一緒に楽しそうに笑っていました。
ふたりは友達に手を貸すことをしましたし、聞こえるみんなもろう児のふたりのことをいつも気にかけてくれました。
6年間を思い返してみれば、本当に仲が良い学年だったと思います。

「集合ー!」

笛の音は聞こえるようでしたが、人の声はどうもふたりには聞こえないらしいです(補聴器の性質?)。
置いてけぼりをくらいそうになる時もよくありましたが、私が呼びに行こうとすると、決まって聞こえる子どもたちの誰かがサッと動いて二人を呼びに行ってくれました。
一日中ひとりで情報保障をやらなければならなかった私にとって、体力面はいつでも課題でしたが、この6年間は聞こえる子どもたちに本当によく助けてもらいました。
遠くに行ってしまった二人を呼びたいときは、いつも聞こえる子どもたちに、
「ソラとリク呼んできてー!!」
と、私はまわりの聞こえる子どもたちに向かって叫ぶのです。
私のもとに必ず連行されてくるふたり。
今考えたら非常に素敵なシステムだったと思います。
ありがとう、聞こえる子どもたち。

サツマイモは秋に収穫されました。
子どもの顔より大きいサツマイモ。
みんなで焚火を囲み、焼きイモもしました。
お腹を空かした5年生が、「僕たちにも分けてください」と真顔で言いに来たのは忘れられないエピソードです。
農園での作業は楽しい時間でした。

いつも私が心苦しかったのは、私は手話をし続けなければならなかったため、ろくに作業を手伝えず他の先生方にはいつも申し訳なく思っていました。
私の手は手話をするために常に空けてあったのです。
荷物を持つこともしませんでした。
移動中にも常に指示は聞こえてくるし、ろう児から話しかけられることもあったからです。
なぜ、シオン先生は作業をやらないのだろうときっと思われていたでしょう。
きっと仕事をしない人だと思われていたんだろうと思います。
私はろう児の情報保障をするために勤務していました。
それがどういうことなのか、手話とは何なのかを説明するような機会も時間も無いままに、日々が過ぎていきました。
おそらくほとんど理解されないまま、私は小学校の中で毎日働いていました。

『音声での指示はいつどこから聞こえてくるか分からない。』

他の子どもたちがしゃべっている会話の通訳をすることもしょっちゅうありました(全てではありませんが、時々重要度が高い情報をしゃべる子もいたので、臨機応変に対応していました)。

ありとあらゆることばや情報を、ろう児に伝え続ける日々でした。

 

地域の公立小学校(ろう学校ではありません)にて6年間、耳の聞こえない児童ふたり(ソラとリク)に手話を使って支援をしてきたコーダの私(シオン)が感じたことや考えていたことなどを書いています。大勢の聞こえる子どもたちと一緒に過ごした日々を少しづつ紹介。聞こえない世界と聞こえる世界の狭間から見えていた様子を、少しでも感じ取っていただけたら幸いです。