コーダ☆マインド

耳の聞こえない親を持つ聞こえるシオンが考える、コーダのことや手話のこと。

【ろう児教育支援30】やることがひとつ多い

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1年生のときに「ひらがな」と「カタカナ」を学びます。
簡単な漢字も1年生のときから習います。
2年生、3年生…、教科書で習う漢字の数は年間で決まっており、それを入学から卒業までの6年間、毎年積み上げて文字が書けるようになります。
文字が書けるようなるには、その文字がまず読めないと書けません。
知っていないと書けません。
聞こえる子どもたちは、毎日音声をシャワーのように浴び続けています。
自分に直接関係の無い会話も、人のうわさ話も悪口も、日常生活は音情報であふれています。
テレビからもラジオからも、街中を歩くだけ、買い物をするだけの間にも、様々な情報が耳から聞こえてきます。
聞こえる子とろう児の圧倒的な情報量の差を、私はいつも目の当たりにしてきました。
「聞こえなくてかわいそう」
「聞こえていればこんなに苦労することは無いのに」
このような考えが私の中に少しでもあれば、ろう児は敏感に感じ取るでしょう。
無意識の領域がろう児に染み込んでしまいます。
「聞こえる人になりたかった」
こんな想いを強く抱かせてしまい、今後の彼らの人生がつらく苦しい人生になってしまうのは嫌でした。
私は両親がろう者です。
聞こえない友人もいます。
聞こえなくても、生き生きと楽しそうなろう者たちの姿をたくさん見ていました。
私はろう者たちの生き様を知っています。
そのろう者たちと同じように生きてほしいといつも思いながら、私はふたりに接していました。

「聞こえなくても、なんとかなる。」
「聞こえるようにはならない。だから、今の自分で何をすべきか考えなさい。」

聞こえないことへの配慮はしますが、何ら特別扱いはしません。
自分を受け入れ、考え、行動することの大切さを、いつでも先生方と協力して指導していました。
このような方針で6年間、ふたりを支えてきたのです。
「ふたりはろう者としてしっかり生きていける」
私は自信を持ってふたりに接してきました。
耳の聞こえない子どもがどうやっていきていくのか、将来像のつかめない先生たちは不安を感じながらの指導だったのではないかと思います。
「聞こえなくてもたくましく生きていけますから、大丈夫!」
私は、子どもたちにも先生たちにも、同じようなことを言っていました。
当のろう児は、兄弟も両親もろう者ということもあって、耳が聞こえないのは自分だけという寂しい思いをすることはまったく無く、ほかのろう家族との交流も頻繁にあったようで、彼らの中で、耳が聞こえないということは普通の感覚なのだということは、毎日接していて感じていました。
かく言う私も、耳が聞こえない人の存在はごく普通のことなので、私にとってろう児やろう者と接することは、とても居心地の良い空間でした。

ところで、1年生のときに「ひらがな」と「カタカナ」を学ぶと冒頭書きましたが、この50音が書けない間は、ちょっと大変です。
聞こえる子たちは音声で話せるし聞こえるので、その期間は問題なく過ぎ去りますが、聞こえない子の場合はここが落とし穴です。
ろう児の発音は不明瞭で、何を言っているのか聞き取れませんし、発声している本人が自分の声が聞こえないので、どうしようもありません。
ですが、ソラとリクは50音を知っていました。
「指文字」です。
「指文字」は50音を手の形で表したもので、ふたりは声を出しながら指文字をすることを、6歳ですでにマスターしていました。
これには、本当に家族や保育園の先生、言語聴覚士さんに感謝です。
なにより、ソラとリクはしっかりと指文字を使いこなせていたのです。
(ソラは微妙に間違えて覚えていたので、ところどころ直させましたが…)

そして、「手話」です。

ろう児であるふたりは、聞こえる子と同じ学習量に加え、「手話」も覚えていく必要がありました。
日常会話程度の手話はもちろんできていたふたりですが、学校生活に出てくることば、そして教科書に出てくるようなことばは、日常会話とは質が異なります。
「手話」がある分、やることが多かったかもしれませんが、それでも「手話」をやらないわけにはいきません。
手話はソラとリクには必要でした。
手話もしなけれならないことの大変さを心配し、担任の先生はふたりのにお母さんにそのことを相談した機会がありましたが、
「気にしないでください!たいしたことないですから!大丈夫です!」
とのお答えをいただいたということがありました。
「手話を使うのは当たり前だし、必要なことだから。」
というお母さんの考え方には、一点の曇りもありませんでした。
母と子、どちらも聞こえないので、聞こえない人の気持ちが分かりあえるのはもちろんですが、「苦にならない」という感覚を答えてくださったのは、ありがたかったです。
聞こえる側からすると「大変なのでは?」と考えるのですが、ろう者側からすると「なんということはない」ということもあるのです。
このあたりは、聞こえる人と聞こえない人の感覚の違いなので、両方の感覚が分かる私としてはどちらの想いも分かっていましたが、お互いが確認し合ってくれたのは良いことだと思い、そばで見守っていた私です。

地域の公立小学校(ろう学校ではありません)にて6年間、耳の聞こえない児童ふたり(ソラとリク)に手話を使って支援をしてきたコーダの私(シオン)が感じたことや考えていたことなどを書いています。大勢の聞こえる子どもたちと一緒に過ごした日々を少しづつ紹介。聞こえない世界と聞こえる世界の狭間から見えていた様子を、少しでも感じ取っていただけたら幸いです。