コーダ☆マインド

耳の聞こえない親を持つ聞こえるシオンが考える、コーダのことや手話のこと。

3回目のワクチン 2022年の日記#1

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しばらく忙しかったのと、なんとなくブログに意識を集中して向けることができない時期を過ごしていましたが、やっぱり書きたくなる・書かずにはいられない時期がくるものです。

本日、3回目の新型コロナウイルスワクチンを接種してきました。
私は、注射自体には何の抵抗もないタイプです。
むしろ、針をずっと見ていられるタイプなのですが、このコロナワクチンに関しては、1回目と2回目の接種後に筋肉痛と発熱を経験しているので、今回もそうなるのかと憂鬱でしかたがありませんでした。

Zoomでシンポジウム「日本手話をめぐる諸問題」に参加し、視聴している途中でしたが、市内の病院に接種のために向かいました。
1回目と2回目は、市外の病院だったため意識せずに済んだのですが、3回目は市内の病院だったということを、感覚的に思い知らされました。

まず、受付で「わ~~!〇〇さん!!私、分かりますか?」と呼びかけられてびっくり。
20年以上も前のアルバイト先で一緒だった方が受付をしており、当時の感覚が蘇ってきたのです。
その人のことが嫌いとかではなく、いきなりのそのテンションにまずついていけず…。
困惑していたら、「書きもらしがありますから!そっちで書いてください!」と用紙を確認していた人からつっけんどんに言われ、「は?書きもらし?」と思いつつ、用紙を見たら今日の日付と署名をまだ書いてなかった私。
その場で書こうと思っていて空白のままだったのですが、「どうして書いてこないんですか!」的な勢いで対応されたのです。

「そうだ…、ここは市内だった…」

その瞬間に思い出しました。
子どもの頃から不思議に感じていた、この地域独特の冷たさ。
冷たいのではなく「そういう風土なんだよ」と、大人になってから、他の地域の人が話すのを何度も耳にしました。
他地域からお嫁に来た人は、「なんでその地域に行くの?やめたほうがいいよって言われたことがあるよ」とまで言っていたのを聞いたことがあるので、相当です。
最近はずっとその感覚を忘れていましたが、急に現実に引き戻された感覚です。

私の両親はろう者です。
両親は自分たちの故郷ではなく、父の会社のあるこの市で暮らしていました。
頼れる聞こえる人は近くに誰もいません。
私は手話も音声日本語もよく分からないまま大人になっていったのですが、どうもこの地域の人の話し方や人への接し方に、ずっとなじめない感覚がありました。
それは、「私は両親がろう者だから、日本語で会話することの意味が分かっていないからなんだ」と、自分の方に原因があると思い込んできました。
しかし、月日が流れ、市外の人や県外の人とたくさん話をする中で、私は気がついたのです。

「私じゃなくて、ここの地域性だ」と、ようやく気がつくことができました。

他の地域の人と比較することで、気がついたのです。
他市で働くようになってから人のやさしさに触れることが増え、やさしい言葉かけや接し方を目にする機会も増え、私の感覚は間違ってなかったことを悟りました。

耳の聞こえない両親にはそんなことは分かる由もありません。
ことばの言いまわしや接し方がきついことなど、気がつきません。
誰にも相談できず、私は私の胸の中にずっとしまっていた感覚でした。

「記入漏れがありますよ!!」
ではなく、
「ここだけ、今記入していただけますか?」
で済む話なのです。
わざわざミス(ミスなのか?)を大声で指摘し、別場所に移動させ、記入させられましたが、これに何の意味があるのかさっぱり分かりません。
幸い子どものころからのこの地域の洗礼を受けてきたので「はいはい」と従いましたが、「やっぱりおかしいよなぁ」と時間が経っても思い出します。

そしてさらに、ワクチン接種後に15分の待機時間がありますが、なんとタイマーを首からぶら下げられました。
なんというか、すごく嫌な気分になったのですが、他の人(主に高齢者でしたが)は普通に首からタイマーをぶら下げて待機していたので、私も仕方なくそうしました。

私は仕事上、他のワクチン接種会場の様子もいろいろ見てきているのですが、タイマーを首からぶら下げられていたところなど、どこにもありません。
タイマーを持たされたところはありましたが、まさか首からぶら下げることになるとは…
これは私が考えすぎなだけでしょうか。
でも、「嫌だな」と感じたことを言えなかった私もいけないのでしょうか。

短時間の間に、「えっ?」「えっ?」ということが起こったので、私の頭の中で情報処理が追い付きませんでした。

少しだけ買い物をして帰宅したら、まだZoomでシンポジウムは続いておりました。
朝10時からのシンポジウム、長時間にわたりお疲れ様でございました。

なんだか感慨深い日になったので、久しぶりに日記のように書いてみましたが、あくまでも私個人の感覚でしかないなぁと。
自分の育った市のことをこんな風に感じるなんてとても悲しいのですが、子どものころの自分の感覚は否定しなくても良いものだったと、記憶のために書き残します。

手話通訳士試験のこと その1

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私は手話通訳者全国統一試験を受けて手話通訳者として登録し活動してから4年目に、手話通訳士試験(手話通訳技能認定試験)を受けました。
まず、この4年間についての話を書きたいと思います。

手話通訳者1年目

まず、右も左も分からない状況で、県の手話通訳者として登録しました。
なにがどう分かっていないのかすら分からないので、とにかくひとつひとつを丁寧にこなすということを意識して活動していました。
何をやっても初めてのことばかりでしたので、「知らないことを経験する」というストレスがとても大きかったのを覚えています。
手話通訳者が現場で実際にどう動き、何に気を付けて、どのように通訳を行うのか。
1年目はとにかく通訳者として学び、新しく知ることや身につけることが多い年でした。
なにより、「私は手話通訳者なのだ」というプレッシャーを強く感じすぎてしまい、それまでは「手話通訳者をめざす学習者」という立場で、ある意味楽しんでいられた部分もありましたが、試験に合格しプロの立場になると、楽しんでいる余裕がまったく無くなりました。
学習者から手話通訳者への意識の移行がものすごく苦しかったです。
統一試験はひとり合格だったため同期がおらず、同じ立場で話せる相手がいなかったのもつらかったです。
この1年目が、とにかく一番つらかったと言い切れます。

手話通訳者2年目

1年目の時からなのですが、県の手話通訳士会が開いてくださった「手話通訳士を目指す人のための学習会」に参加しました。
1年目も2年目も、自分の実力的にはまだまだ士には足りなすぎる!と感じていましたので、受験はしませんでしたが、この学習会には参加して過去問などに取り組みました。
通訳者としては2年目でだんだんと慣れ、1年目のような気持ちの苦しさは無くなっていきました。

手話通訳者3年目

実はこの3年目が大変で、身体を壊し休職しました。
小学校での支援員の業務が大きな負担となり、休職をやむなくすることに。
ですので、士試験どころではなく、この年は身体と心を回復することに努めました。

手話通訳者4年目

この年の春頃には身体も心もそれなりに回復してきており、秋(10月)の士試験に向けて本格的に学習を始めました。
手話通訳者1年目~2年目の頃には、まだまだ実力不足と感じていた私でしたが、4年目くらいになると、だいぶ通訳経験も積んできており、自信もついてきていました。
ですが、士試験の難しさは重々承知していたので、とにかく必死で試験勉強をしました。
10月の試験に合わせて逆算をし、繰り返し過去問を解きました。
そうすることで、自分の苦手な分野が分かってきます。
点数が取れそうなところはいいとして、自分が特に分かっていない「社会福祉制度」については、社会福祉士のテキストなどを読んだり、インターネットで資料を読みまくりました。
手話の実技「聞き取り」と「読み取り」は、DVDをほぼ毎日見て、練習に明け暮れました。
手話漬けの生活でした。

 

では次回は、試験日当日のことを書こうと思います。

 

【ろう児教育支援32】聞きたくない!

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楽しいことや印象深い出来事をピックアップして書いている【ろう児教育支援】の記事ですが、実際の私は毎日毎日、いつでも激怒しておりました。
よくもまあ、こんなに毎日怒れるもんだと自分でも驚きましたが、それくらい私はしょっちゅう怒っていました。
ろう児ふたりに対して。
隣のクラスの子が「シオン先生、いつも怒鳴ってるよね。聞こえるよ。」と教えてくれることもありました。

怒ると言っても私は感情をただぶつけていた訳ではなく、約束やルールを守らなかったり、自分勝手な行動をしたふたりに注意をする意味で怒っていたのですが、それにしても、毎日私は怒っていました。
怒鳴ったところで声はふたりには聞こえません。
ただ、補聴器は着けていたので、何かしらの音は耳から入っていたと思います。
大きな声で怒るだけではなく、当然私は手話でも怒るので、声が耳から聞こえていなくても手話を目で見ることで、彼らは「自分のしたこと」、あるいは「やるべきことをやらなかったこと」に気がつくことができました。

聞こえる子は聞きたくないことは聞き流すこともできますが、そもそもふたりは聞こえないので、私は手話で説明し続けました。
すると、みるみる顔色が変わり、自分がいかに悪かったかということを自覚していく様子を見せます。
そんな時、聞こえる子が「これ以上聞きたくない!」となった場合、両耳を手でふさぎ、ぎゅっと目をつむると思うのですが、聞こえないふたりはそうではありません。
両手で両目を覆うのです。

「シオン先生の手話、これ以上見たくない!!」

聞こえない上に目まで覆われてしまっては、こちらはそれ以上話を進めることができません。

「ちゃんと見なさい!」

両手を外させようとするのですが、ものすごい力で目を覆っています。
よっぽど話を聞きたく(見たく)無かったのでしょう。
手を外させたとしても、その後もぎゅうっと両目をつぶっていますので、そこまで抵抗されると、もう呆れてしまいました。

「次からはしっかりやります!」

ろう児は聞こえる私に聞こえるように、声で謝ってきます。
こういうところは、ろう児も分かっているのです。
聞こえる人には声で言えばいいということを。

「あのね、謝ることも大事だけれども、人の話は最後まで聞きなさい。」
(手話では「最後まで見なさい」とも表出)

と、私は怒りながらも、手話で何度も何度も同じことを説明するのです。
毎日毎日ネタは尽きることなく、私は怒っていました。

しかし今思えば、やはり手話があって良かった、手話が分かる子たちで良かった、とつくづく思うのです。
音声は聞こえず、手話も分からなければ、怒られている内容など分かりようがありません。
ただひたすら怖い顔で口が動いている先生の顔を見ているだけで、空白の時間が過ぎ去るだけです。

小学生時代から、ことば(手話)を目で見て理解していく経験を6年間積み重ねられたことは、彼らにとって非常に重要だったと私は強く思っています。

 

地域の公立小学校(ろう学校ではありません)にて6年間、耳の聞こえない児童ふたり(ソラとリク)に手話を使って支援をしてきたコーダの私(シオン)が感じたことや考えていたことなどを書いています。大勢の聞こえる子どもたちと一緒に過ごした日々を少しづつ紹介。聞こえない世界と聞こえる世界の狭間から見えていた様子を、少しでも感じ取っていただけたら幸いです。

 

日中は暑い。

すっかり朝晩寒くなってきました。
日が落ちるのも早くなり、夜が長くなったのを感じます。

日常の中にZoomがあるのが当たり前になりました。
少しずつ、人と実際に会う機会も増えていきそうですが、以前のようにはきっといきませんね。
なんだか以前とは違う世界を生きているような気もします。

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気が付いたら3日もブログが書けずにいました。
それくらい、ほかへ時間を費やしているということでしょうか。
現在はJ-CODAに時間を使っていることが多いです。
J-CODAは私の癒し処です。
11月にはイベントも控えているので、楽しみです。

ブログは、すらすら書けるときは書けるのですが、エンジンがかからないとまとまった文章が書けませんね。
父が体調を崩したこともあり、そちらに意識を使っていたこともありますが。

穏やかな日常のありがたさを感じています。