コーダ☆マインド

耳の聞こえない親を持つ聞こえるシオンが考える、コーダのことや手話のこと。

さまよえるコーダたちへ

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ポジティブコーダ、ネガティブコーダ。
いろんなコーダがいますけれども、コーダが取り上げられるとき、どうしても「悲劇のヒロイン」や「感動ポルノ」風に仕立て上げられてしまう気が否めません。

コーダってかわいそうなの?

聞こえない親を支えているコーダって、感動的なの?

私個人としては、「まぁ、そういう見方もできるかもね」くらいで、
「実際は違うんだけどなぁ」
と毎回つぶやいてしまいます。

コーダは普通の存在だし、特別なことなどなにもありません。

親が聞こえないことは普通のこと。
手話を使うのは普通の日常生活。
「ろう文化」と「聴文化」は確かに違うけど、普通に切り替えて対応するのは普通のことだし。

これが今の私の感覚。
大人になるまで(あるいは大人になってからもありましたけど)、
「なんでほかの人と違うんだろう」
と悩んだ時期も確かにありましたが、現在の私はさまようことから抜け出せたと言えるのかもしれません。

いまださまよえるコーダたち。

苦しみから解放されないコーダたち。

コーダの心が救われるのは個人差があると思います。
「救われる方法は?」の問いへの明確な答えはありませんが、これだけは言えます。

「いろんなコーダの話を聞いてみてほしい。」と。

自分と似たような経験、あるいはまったく想定外な経験。
コーダたちの経験談は、自分の経験では無いけれど、まるで自分のことのよう。
心の霧が晴れていく感覚を、コーダ同士で感じあえたその瞬間は、自分がコーダであることを再認識し、自分のことも親のことも、ほんの少しかもしれませんが許せると思います。
社会に対する想いも変化していきます。
コーダの苦しみを解放できる特効薬はありませんが、コーダであることを楽しむ方法はきっとあります。

コーダがいままでコーダのことを語ってこなかったのは、語らなくても大丈夫だったからなのでしょうか。
そうではないと思います。
ではなぜ、今までのコーダたちはコーダとしての想いを語ってこなかったのでしょうか。
最近ちょっと気になっている部分です。

さまよえるコーダたち。
どうかどうか諦めずに生きてほしい。
自分の良いところを見つめ直してほしい。
自分の強みを改めて確認してほしい。
自分をもっと褒めてあげてほしい。
自分の経験を生かして、楽しく強く生きてほしい。

コーダはもっともっと自信を持って、胸を張って生きてもいいのではないでしょうか。

 

◆コーダについて◆
あくまでも私の経験と主観に基づいて、私なりに記事を書いています。
コーダがみんな同じような経験をしているわけではありません。
コーダの想いは様々です。どうかご理解いただけると嬉しいです。

【ろう児教育支援30】やることがひとつ多い

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1年生のときに「ひらがな」と「カタカナ」を学びます。
簡単な漢字も1年生のときから習います。
2年生、3年生…、教科書で習う漢字の数は年間で決まっており、それを入学から卒業までの6年間、毎年積み上げて文字が書けるようになります。
文字が書けるようなるには、その文字がまず読めないと書けません。
知っていないと書けません。
聞こえる子どもたちは、毎日音声をシャワーのように浴び続けています。
自分に直接関係の無い会話も、人のうわさ話も悪口も、日常生活は音情報であふれています。
テレビからもラジオからも、街中を歩くだけ、買い物をするだけの間にも、様々な情報が耳から聞こえてきます。
聞こえる子とろう児の圧倒的な情報量の差を、私はいつも目の当たりにしてきました。
「聞こえなくてかわいそう」
「聞こえていればこんなに苦労することは無いのに」
このような考えが私の中に少しでもあれば、ろう児は敏感に感じ取るでしょう。
無意識の領域がろう児に染み込んでしまいます。
「聞こえる人になりたかった」
こんな想いを強く抱かせてしまい、今後の彼らの人生がつらく苦しい人生になってしまうのは嫌でした。
私は両親がろう者です。
聞こえない友人もいます。
聞こえなくても、生き生きと楽しそうなろう者たちの姿をたくさん見ていました。
私はろう者たちの生き様を知っています。
そのろう者たちと同じように生きてほしいといつも思いながら、私はふたりに接していました。

「聞こえなくても、なんとかなる。」
「聞こえるようにはならない。だから、今の自分で何をすべきか考えなさい。」

聞こえないことへの配慮はしますが、何ら特別扱いはしません。
自分を受け入れ、考え、行動することの大切さを、いつでも先生方と協力して指導していました。
このような方針で6年間、ふたりを支えてきたのです。
「ふたりはろう者としてしっかり生きていける」
私は自信を持ってふたりに接してきました。
耳の聞こえない子どもがどうやっていきていくのか、将来像のつかめない先生たちは不安を感じながらの指導だったのではないかと思います。
「聞こえなくてもたくましく生きていけますから、大丈夫!」
私は、子どもたちにも先生たちにも、同じようなことを言っていました。
当のろう児は、兄弟も両親もろう者ということもあって、耳が聞こえないのは自分だけという寂しい思いをすることはまったく無く、ほかのろう家族との交流も頻繁にあったようで、彼らの中で、耳が聞こえないということは普通の感覚なのだということは、毎日接していて感じていました。
かく言う私も、耳が聞こえない人の存在はごく普通のことなので、私にとってろう児やろう者と接することは、とても居心地の良い空間でした。

ところで、1年生のときに「ひらがな」と「カタカナ」を学ぶと冒頭書きましたが、この50音が書けない間は、ちょっと大変です。
聞こえる子たちは音声で話せるし聞こえるので、その期間は問題なく過ぎ去りますが、聞こえない子の場合はここが落とし穴です。
ろう児の発音は不明瞭で、何を言っているのか聞き取れませんし、発声している本人が自分の声が聞こえないので、どうしようもありません。
ですが、ソラとリクは50音を知っていました。
「指文字」です。
「指文字」は50音を手の形で表したもので、ふたりは声を出しながら指文字をすることを、6歳ですでにマスターしていました。
これには、本当に家族や保育園の先生、言語聴覚士さんに感謝です。
なにより、ソラとリクはしっかりと指文字を使いこなせていたのです。
(ソラは微妙に間違えて覚えていたので、ところどころ直させましたが…)

そして、「手話」です。

ろう児であるふたりは、聞こえる子と同じ学習量に加え、「手話」も覚えていく必要がありました。
日常会話程度の手話はもちろんできていたふたりですが、学校生活に出てくることば、そして教科書に出てくるようなことばは、日常会話とは質が異なります。
「手話」がある分、やることが多かったかもしれませんが、それでも「手話」をやらないわけにはいきません。
手話はソラとリクには必要でした。
手話もしなけれならないことの大変さを心配し、担任の先生はふたりのにお母さんにそのことを相談した機会がありましたが、
「気にしないでください!たいしたことないですから!大丈夫です!」
とのお答えをいただいたということがありました。
「手話を使うのは当たり前だし、必要なことだから。」
というお母さんの考え方には、一点の曇りもありませんでした。
母と子、どちらも聞こえないので、聞こえない人の気持ちが分かりあえるのはもちろんですが、「苦にならない」という感覚を答えてくださったのは、ありがたかったです。
聞こえる側からすると「大変なのでは?」と考えるのですが、ろう者側からすると「なんということはない」ということもあるのです。
このあたりは、聞こえる人と聞こえない人の感覚の違いなので、両方の感覚が分かる私としてはどちらの想いも分かっていましたが、お互いが確認し合ってくれたのは良いことだと思い、そばで見守っていた私です。

地域の公立小学校(ろう学校ではありません)にて6年間、耳の聞こえない児童ふたり(ソラとリク)に手話を使って支援をしてきたコーダの私(シオン)が感じたことや考えていたことなどを書いています。大勢の聞こえる子どもたちと一緒に過ごした日々を少しづつ紹介。聞こえない世界と聞こえる世界の狭間から見えていた様子を、少しでも感じ取っていただけたら幸いです。

記憶の保管場所

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ブログを書き続けていて思ったのは、自分の頭の中には自分が思っている以上にたくさんのことが保管されているということ。
ですが、それは私の頭の中であって、ほかの人から見ることはできません。
こうして文字に表すことで、ほんの少しでも、誰かのお役に立つことがあれば嬉しいですし、書き出すことで私の頭も「これは覚えていなきゃ!」ということが無くなり、容量が空くような感覚があります。
スケジュールは手帳に書きだし、頭の中は空けておくという感覚に似ています。
文章を見返して、「なるほど、そういうことね」と自分で確認することもできるという。
書いていたり読みかえしたりする中で、また話題が広がりそうな部分も見つけたり、あるいは思いついたりするので、ブログの良さを改めて感じています。

カテゴリー「つぶやき日記」では、本当にただのつぶやきでしかない時もありますが、意外とそれが重要で。

少しづつ続けて、楽しんで、1年後くらいには達成感みたいなものが味わえたらいいなぁとは、ぼんやり思っています。
ぼんやり。

擦り切れるほどに

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コーダのこと、ろう児のこと、自分のこと…。
いろいろ書いていて思うのは、「意外といろいろ書きたいことがあったのだな」ということです。
書いていると、あれもこれもといろいろ思い出し、書き始めると収集がつかなくなりそうなときもあります。
最近は毎日少しでも書くことを目標としています。
書くことがおっくうにならないようにすることが目標。
書けるときには、なるべく長文で中身のあるものを書きたいと意気込んではいるのですが、それがなかなか難しい。
1記事にひとつ、重要なメッセージが込められるように頑張って書いています。
ここ1ヶ月くらいはなんとか継続できているので、これを続けていきたいと思っているところ。
仕事(手話通訳)で頭の中を使いすぎているときは、ブログを書くだけの精神力が残っていないときもあるので、ペース配分に気をつけたいです。
「もう書くネタが無い!!」
というところまでは書き続けていきたいので、モチベーションも保ちたいな、と。
どんな話題からもネタを書けるように、いろんなことばを自分の中に準備しておきたいです。

ろう者と運転免許

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私がコーダを語るには、ろう者である父と母の存在が重要です。
今回は、父の運転免許について。

父が今年の3月の誕生日を節目に、運転免許証を返納しました。
それに伴い、父の車も処分したのですが、ずっとあることが当たり前だった父の車が庭から姿を消し、運転をしなくなった父を見ていると、時の流れを感じます。

ろう者が運転免許を取得するのは、今の時代では当たり前のことですが、今から少し前の時代は当たり前では無い時代でした。
そもそも聴覚障害者がバイクや車を運転することが、「聞こえないから」という理由で許されなかった昔。

www.jfd.or.jp

ろう運動で聴覚障害者が運転免許を取得できるようになったといっても、その当時のろう者たちは読み書きが苦手なろう者が多く、筆記試験に合格することが困難でした。
父の話だと、原付の試験でさえも何十回とチャレンジしたけれど、合格できなかったろう者がいるそうです。
そのろう者たちは、歳を取った現在の移動手段は自転車。
今は電気自転車に乗ってスイスイ移動し、元気な人が多い気がします。
私の父は、私の記憶をたどると、私が小さい頃は原付バイクに乗って通勤していました。
その後、父が自動車免許を取得したのは私が小学生のころだったと記憶しています。
それからずっと、補聴器、ワイドミラー、聴覚障害者標識(蝶々マーク)などを活用して運転していました。
父は運転しながら手話で話すことは一切しません。
ほかのろう者が運転する車に乗せてもらったときは、ハンドルから手を放し手話をするろう者の姿に、目玉が飛び出るほど驚いた私です。
もちろんそれは一瞬のことで、すぐにハンドルを握って運転を続けるのですけども、「運転しながら手話をするなんて…!」と初めてそれを経験したときは、本当に驚きました。
父は手先が器用で、普段は割と落ち着いて物事をこなすのですが、同時にふたつ以上のことをするのは苦手なようです。
人としては不器用に生きている人だと、娘ながらに感じています。
それでも、家族を載せて運転してくれていましたし、私の送り迎えも何度もしてくれました。
難点は、「迎えに来て!」と電話で伝えることができないこと。
ですので、事前に時間と場所をしっかり確認して迎えをお願いするという方法しかできなかったのですが、父が車を運転できることは本当にありがたかったです。
事故は時々接触事故を起こすことがありましたが、幸い大きな事故をすることは無く、なんとか今日まで過ごしています。
事故のことを思い出すと本当にいろいろありました。
娘に悟られまい怒られまいと事故を起こしたことを内緒にして、結局私にバレて怒られるということもありましたが、それも父の性格上、仕方が無いことと思っています。
相手方はうちへ電話をかけてきますから、どうしたって私にバレます。
耳の聞こえない父と事故を起こしてしまった相手方も相当困ったでしょう。
相手方からぶつかってきた場合などは、家に直接あやまりにきます。
相手方は突然来るわけですから、結局娘の私が通訳をしなければならない状況になります。
コーダは家に居るときでさえ、こういう経験をすることがあるのです。

父が最後に乗っていた軽自動車は、あちこちぶつけてボコボコになっていましたが、買い物に行くのも、手話サークルへ行くときも、通院も、父は自分で運転して出かけていました。
大好きなゲートボールも朝早くからウキウキで支度して出かけていき、好きな店で好きなものを買い、満面の笑みで夕方帰宅するのが、父のいつもの行動でした。
それも、今ではできない過去のことです。

現在(2021年10月)、一緒に暮らす私や弟が父を助手席に乗せて出かけるようになりました。
家にいる時間が長くなってしまった父。
コロナの影響もありますが、買い物でさえ、自分のタイミングで行けなくなってしまいました。
「車/無い/寂しい?」(車運転できなくて寂しい?)
と聞くと、「そうでもない」というような返事をしますが、本心はどうなのだろうと気になります。

高齢になり、自分で運転免許を返納する決断をしたのは、父なりに感じることがあり、考えた結果だと思うので、尊重したいと思います。
しかし、父が自分で出かけられなくなってしまったので、買い物や病院などは全部私や弟が連れていかねばなりません。
田舎なので、公共交通機関が脆弱です。
コミュニティバスやタクシーを活用することは可能なのでしょうけれども、それを呼ぶには電話をかけなければなりません。
電話は高齢ろう者の父には無理です。
運転手さんとコミュニケーションを取るのも父には難しいでしょう。
「面倒」
と父はいつも言います。
この「面倒」ということばは奥深く、長い父の人生の中で、聞こえないことが理由で差別されたり相手にすらしてもらえなかったりした苦しみと悲しみが詰まっているように私には感じられるのです。

時代は変わってきています。
ろう者への理解は広がってきています。
しかし、過去を生き、今を生きる高齢ろう者はいろいろな経験をしてきています。
それを、私のようなコーダは、親と一緒に経験してきているのです。

父の運転免許証返納は、父の人生においても私の人生においても大きな出来事だと思いました。
日々はいつも通りなんとなく過ぎていく感じなのですが、父も私もしっかり歳を取っているのだと改めて感じます。

今日も私は聞こえない父と共に生きています。
ひとまず、お父さん、長い間運転お疲れ様でした。