コーダ☆マインド

耳の聞こえない親を持つ聞こえるシオンが考える、コーダのことや手話のこと。

ろう者と運転免許

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私がコーダを語るには、ろう者である父と母の存在が重要です。
今回は、父の運転免許について。

父が今年の3月の誕生日を節目に、運転免許証を返納しました。
それに伴い、父の車も処分したのですが、ずっとあることが当たり前だった父の車が庭から姿を消し、運転をしなくなった父を見ていると、時の流れを感じます。

ろう者が運転免許を取得するのは、今の時代では当たり前のことですが、今から少し前の時代は当たり前では無い時代でした。
そもそも聴覚障害者がバイクや車を運転することが、「聞こえないから」という理由で許されなかった昔。

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ろう運動で聴覚障害者が運転免許を取得できるようになったといっても、その当時のろう者たちは読み書きが苦手なろう者が多く、筆記試験に合格することが困難でした。
父の話だと、原付の試験でさえも何十回とチャレンジしたけれど、合格できなかったろう者がいるそうです。
そのろう者たちは、歳を取った現在の移動手段は自転車。
今は電気自転車に乗ってスイスイ移動し、元気な人が多い気がします。
私の父は、私の記憶をたどると、私が小さい頃は原付バイクに乗って通勤していました。
その後、父が自動車免許を取得したのは私が小学生のころだったと記憶しています。
それからずっと、補聴器、ワイドミラー、聴覚障害者標識(蝶々マーク)などを活用して運転していました。
父は運転しながら手話で話すことは一切しません。
ほかのろう者が運転する車に乗せてもらったときは、ハンドルから手を放し手話をするろう者の姿に、目玉が飛び出るほど驚いた私です。
もちろんそれは一瞬のことで、すぐにハンドルを握って運転を続けるのですけども、「運転しながら手話をするなんて…!」と初めてそれを経験したときは、本当に驚きました。
父は手先が器用で、普段は割と落ち着いて物事をこなすのですが、同時にふたつ以上のことをするのは苦手なようです。
人としては不器用に生きている人だと、娘ながらに感じています。
それでも、家族を載せて運転してくれていましたし、私の送り迎えも何度もしてくれました。
難点は、「迎えに来て!」と電話で伝えることができないこと。
ですので、事前に時間と場所をしっかり確認して迎えをお願いするという方法しかできなかったのですが、父が車を運転できることは本当にありがたかったです。
事故は時々接触事故を起こすことがありましたが、幸い大きな事故をすることは無く、なんとか今日まで過ごしています。
事故のことを思い出すと本当にいろいろありました。
娘に悟られまい怒られまいと事故を起こしたことを内緒にして、結局私にバレて怒られるということもありましたが、それも父の性格上、仕方が無いことと思っています。
相手方はうちへ電話をかけてきますから、どうしたって私にバレます。
耳の聞こえない父と事故を起こしてしまった相手方も相当困ったでしょう。
相手方からぶつかってきた場合などは、家に直接あやまりにきます。
相手方は突然来るわけですから、結局娘の私が通訳をしなければならない状況になります。
コーダは家に居るときでさえ、こういう経験をすることがあるのです。

父が最後に乗っていた軽自動車は、あちこちぶつけてボコボコになっていましたが、買い物に行くのも、手話サークルへ行くときも、通院も、父は自分で運転して出かけていました。
大好きなゲートボールも朝早くからウキウキで支度して出かけていき、好きな店で好きなものを買い、満面の笑みで夕方帰宅するのが、父のいつもの行動でした。
それも、今ではできない過去のことです。

現在(2021年10月)、一緒に暮らす私や弟が父を助手席に乗せて出かけるようになりました。
家にいる時間が長くなってしまった父。
コロナの影響もありますが、買い物でさえ、自分のタイミングで行けなくなってしまいました。
「車/無い/寂しい?」(車運転できなくて寂しい?)
と聞くと、「そうでもない」というような返事をしますが、本心はどうなのだろうと気になります。

高齢になり、自分で運転免許を返納する決断をしたのは、父なりに感じることがあり、考えた結果だと思うので、尊重したいと思います。
しかし、父が自分で出かけられなくなってしまったので、買い物や病院などは全部私や弟が連れていかねばなりません。
田舎なので、公共交通機関が脆弱です。
コミュニティバスやタクシーを活用することは可能なのでしょうけれども、それを呼ぶには電話をかけなければなりません。
電話は高齢ろう者の父には無理です。
運転手さんとコミュニケーションを取るのも父には難しいでしょう。
「面倒」
と父はいつも言います。
この「面倒」ということばは奥深く、長い父の人生の中で、聞こえないことが理由で差別されたり相手にすらしてもらえなかったりした苦しみと悲しみが詰まっているように私には感じられるのです。

時代は変わってきています。
ろう者への理解は広がってきています。
しかし、過去を生き、今を生きる高齢ろう者はいろいろな経験をしてきています。
それを、私のようなコーダは、親と一緒に経験してきているのです。

父の運転免許証返納は、父の人生においても私の人生においても大きな出来事だと思いました。
日々はいつも通りなんとなく過ぎていく感じなのですが、父も私もしっかり歳を取っているのだと改めて感じます。

今日も私は聞こえない父と共に生きています。
ひとまず、お父さん、長い間運転お疲れ様でした。

【ろう児教育支援29】「はみ出しちゃった!」

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図工の時間。
粘土を使って作品を作ったり、クレヨンを使って絵を描いたり、ハサミを使って切り貼りしたり。
道具を使い、作品をいろいろ作りました。
子どもたちの机の中には「おどうぐばこ」というものが入っており、そこには、のりやハサミ、セロハンテープ、クーピーなど、様々な道具が入っています。
ちなみに「道具」という手話は一般的にはありません。
辞書には載っているかもしれませんが、実際に使われる場面を私はほとんど見たことがありません。
手話の場合、「ハサミ」や「のり」と具体的に物を伝えます。
(上位概念・下位概念については、また別記事で書けたらと思います。)
しかし「おどうぐばこ」は「おどうぐばこ」以外の何物でもありません。
学校生活でほぼ毎日出てくるこのことばは、非常にやっかいでした。
「おどうぐばこ」と指文字と口形で伝え、そのあとに「おどうぐばこ」の形を手で表して伝える(CL)という方法でなんとかしのいだ感じです。
この「おどうぐばこ」は卒業するまで使い続けるもので、きれいに使っている子もいれば、6年間でボロボロになってしまう子もいました。
小学校では、様々な道具を使うことで手先の器用さが成長していきますし、集中力も身につきます。
道具を管理することも学習の一環です。
学校というのはこういうところも育てていく場所なのだなと思い、教育は奥が深いとしみじみ感じたものです。

さて、本題。
図工だろうが、音楽だろうが、体育だろうが、ろう児にとって知らないことばはいつでも出てきます。
私が手話でさらっと表現して伝えてしまうことはたやすいのですが、
「このことばは、おそらく知らない。」
と私がまずアンテナをしっかり立てて、ことばに敏感になりながら、まずは日本語(指文字)で伝えます。
日本語的だなと感じることばはいろいろありましたが、「なぞる」は難しい日本語だと感じました。
教員は「しっかりなぞりなさい」という指示をいたるところで出します。
国語ドリルや書写(硬筆)ドリルでも「なぞる」ことは大切にされていました。
「しっかりなぞって」とろう児に言ったところで、ふたりには「なぞる」の意味が分かりません。
「なぞる」など未知のことばです。
聞こえる子ならなんとも思わずに分かることばでも、ろう児には通じません。
丸なら丸を、しっかり「なぞる」様子を手話で伝え、そのあとに「なぞる」と指文字をします。
できていれば、うんうんとうなずいてOKと手話し、できていることを伝えます。
しかし、たいがい子どもは雑に描いていますので、
「はみ出しちゃったー!」
と、聞こえる子が言っているのが聞こえてきます。
「はみ出す」ということばも、難しいと感じました。
「『はみ出す』って分かる?」
とろう児に聞くと、当然首をひねります。
すぐに先ほどの丸からはみ出した部分を私は指差し、
「はみ出しちゃったね」
と教えます。
そうすると隣の聞こえる子がちらっとのぞいてきて、
「ホントだ!はみ出してる!」
言ってきます。
すると今度はろう児もその子の絵をのぞき、はみ出しているところを指差します。
声は出していませんが、意味は理解できていますし、伝えることもできています。
「自分だってはみ出してるじゃん!」
となるわけです。
お互いに、「なんだよ~~」とけん制し合いますが、仲良く色塗りなどの作業を楽しみ始めます。

こんな感じに、聞こえる子と一緒に活動をしていましたので、いろんなやりとりを行いながらことばを伝えてきました。

「はみだしちゃったーー!!」

ろう児が声を出してこう言っていたときは、思わず笑ってしまった私です。
おそらく将来的には声は出さずに手話メインで話すようになる子たちだろうと先のことを考えつつも、小学生らしく元気に楽しそうに活動する彼らは、いつもキラキラと輝いて見えました。

 

地域の公立小学校(ろう学校ではありません)にて6年間、耳の聞こえない児童ふたり(ソラとリク)に手話を使って支援をしてきたコーダの私(シオン)が感じたことや考えていたことなどを書いています。大勢の聞こえる子どもたちと一緒に過ごした日々を少しづつ紹介。聞こえない世界と聞こえる世界の狭間から見えていた様子を、少しでも感じ取っていただけたら幸いです。

絡まり絡まる

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「相談したいことがあります」

こんなLINEがくるとドキッとします。
コーダであればなおのこと。
間違いなく、聞こえない親に関することだからです。
どの話を聞いても、聴覚の障害だけでは何の支援もつかないことと、それ以前に聴覚障害がどういったものなのか、コーダが説明しなければならない状況ばかり。
コーダが参ってしまいます。
聞こえない親のことは「かわいそう、大変ね。」と言われますが、それを支えるコーダの存在はまるで透明人間です。
どの障害や介護に関してもそうですが、当事者ではなく、その家族がつぶれてしまったらどうなってしまうのでしょう。
ケアをする人のケアはいったいどこで担ってくれるのでしょうか。

ギリギリのメンタルで生きているコーダたち。
「どうか無理しすぎないで!」と願うばかりです。

日中は暑いのに

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朝晩はだいぶ涼しくなってきました。
今日もあることに時間を取られてしまって、ブログを書く時間がありません。
ちょっと怒りさえ感じていますが、時間は戻ってきません。
今日、苦労したことが、後に役立てばいいんですが…。

それとは別件で、今日は一日朝から夕方まで、何人かのろう者と一緒に行動していたのですが、家族以外のろう者と一日ずっと一緒にいるってなかなか無いよな…としみじみ思いつつも、居心地の良さを感じることができた日でした。
今までコツコツと積み重ねてきたことが、自分にも世の中にも役立ってる感じがして嬉しいです。

だからこそ、物分かりの悪い人に時間を取られたことが腹立たしくて仕方がありませんが、時間が解決してくれることを願っています。

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父(ろう者)を連れ出して散歩に行くことがあるのですが、池を見つけるたびに父は鯉を見つめます。
いちばん大きく太った鯉を見つけては、じっくりそいつを見続けるのです。
大きく太った鯉は動きものろいので、父はそれをじーーーーっと見ます。
鯉を見つめる父がなんだか面白いので、また違う池に連れていこうと思っています。

父は歳を取り、だんだんと足腰も弱ってきました。
気がつくと体も少し縮んだようです。
「小さくなった?」
と私が聞くと、父は微妙な表情で、「高齢」の手話をします。

父は私が生まれる前からずっとろう者です。
耳が聞こえないという障害を持って生きてきました。
おそらく、今よりずっと生きにくい時代だったでしょう。
聞こえない親と一緒にいると、社会の聞こえる人たちがいかに冷たいか感じることがあります。
差別や偏見も受けます。
聞こえないということへのあまりの無理解さに、うんざりするときもあります。

父がどんな経験をしてきて、どんな気持ちで生きてきたのか、しっかりと聞いたことが実は今までありません。
少しづつ聞いていこうかな…。
今ようやく、私にそんな気持ちが芽生えてきています。