コーダ☆マインド

耳の聞こえない親を持つ聞こえるシオンが考える、コーダのことや手話のこと。

noteも活用。

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ヤングケアラーについての記事はnoteに書き綴っていますので、本日はそちらに書いてみました。

コーダはヤングケアラーでもありますが、「介護」ということばからはかけ離れたイメージの「ケア」を親にしています。
外国人の親を持つ子どもと比較すると分かりやすくなるかとは思います。
彼らは日本語の苦手な親に対して通訳をします。
これはコーダも同じです。
両親ろう者の私は、手話で通訳を行います。
ただ、決定的な違いは「耳が聞こえない」ということです。
外国人の親の場合は耳が聞こえているのであれば、音声でやりとりしているという状況は聞こえるので分かるでしょう。
しかし、聞こえない親の場合は、そこに音声が飛び交っているのかどうかさえも分からないのです。
外国語と日本語の場合、音声でのやりとりであれば、それは「聞こえる世界」のみでのやりとりです。
ですが、手話と日本語の間は「聞こえない世界」と「聞こえる世界」間でのやりとりとなり、異空間でのやりとりになるのです。
大人の手話通訳者ですら苦戦するそのやりとりを子どもが担う場面が、生活の要所要所にあります。
「手話通訳者をお願いすればいいのに」
と他人は簡単に言いますが、そのことばにコーダは敏感に反応します。
コーダを否定されたように感じることばだからです。

コーダが親へ手話通訳をすることは悪なのでしょうか?
コーダが「聞こえない親への通訳は大変」と言ってはいけないのでしょうか?

コーダはヤングケアラーな側面もありますが、日常全部がつらく苦しいわけではありません。
「聞こえない世界」と「聞こえる世界」の両方を知っているコーダ。
手話ができるコーダ。
聞こえない人たちとふれあった経験を持つコーダ。
幼い頃からいろんな大人たちと会話をし、しっかりしているコーダ。
耳が聞こえないことへの差別や偏見と戦ってきたコーダだからこそ養われた価値観。
これらは聞こえない親がいてくれたから、コーダが手に入れることのできる「強み」です。
個人差はありますが、コーダから見えている世界があるのです。

「コーダは大変そう」というイメージを持たれてしまいがちですが、「コーダの強み」もどうにか活かせないだろうかと、コーダたちは考えています。

コーダについては、知れば知るほど深く、広い世界です。
私は今後もコーダについての言語化を深めていきたいと思っています。

 

◆コーダについて◆
あくまでも私の経験と主観に基づいて、私なりに記事を書いています。
コーダがみんな同じような経験をしているわけではありません。
コーダの想いは様々です。どうかご理解いただけると嬉しいです。

 

 

 

秋という季節

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レモンティーばかり飲んでいます。
ハマるとそればかりになってしまうのが、いつもの癖。

本日は、ちょっとうっかりペース配分を間違えてしまい、ブログに時間をかけれなくなってしまいました。
ま、そんなときもあります。

季節の移り変わりを感じる秋。
日中はまだまだ暑いですが、朝晩は冷え込んできています。
あんなに咲いていた彼岸花は、もう見る影もありません。
そろそろぶどうも終わりに向かい、そろそろ柿のシーズンでしょうか。
オレンジ色の実が目に付くようになりました。

何年か前に体調を悪くし、傷病休暇をいただいたことを思い出します。
それが、この秋に差し掛かる頃でした。
その時、心身共に支えてくれた親友がいたことを思い出します。
その親友は、残念ながらもうこの世にはいません。
またいつか、ひょっこり会えるのではないかと思うくらい、突然の別れでした。
いつもふたりでバカを言い合い、楽しい時間をたくさん過ごしました。
知り合ってから5年ほどしか経ってなかったのですが、とても濃い時間を過ごし、たくさんのことを教えてもらいました。
どんなに感謝しても感謝しきれません。
楽しいときもつらいときも、「その親友ならきっとこう言うだろう」と頭に浮かんできます。

人生の楽しみのひとつ、それは人との出会い。
人生を楽しむことなんかとうに諦めていた私を見透かすように、親友は私をあちこち連れ回してくれました。
楽しい思い出ばかりです。

思い出すと泣いてしまうので、今回はこの辺にしておきます。
また書けるときに続きを。

 

 

【ろう児教育支援28】抜き足差し足

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地域の公立小学校(ろう学校ではありません)にて6年間、耳の聞こえない児童ふたり(ソラとリク)に手話を使って支援をしてきたコーダの私(シオン)が感じたことや考えていたことなどを書いています。大勢の聞こえる子どもたちと一緒に過ごした日々を少しづつ紹介。聞こえない世界と聞こえる世界の狭間から見えていた様子を、少しでも感じ取っていただけたら幸いです。

難聴学級は2階にあり、階段のすぐ隣の教室でした。
教室の広さは、ほかの教室と同じく広い教室だったため、仕切るためのパーテーションが何枚か置かれていました。
私がひとりで待っているところにろう児たちが教室に入ってくるときの、面白かったエピソードを紹介します。

静かな教室でひとり作業中、ふっと空気感が変わったことに気づきます。
聞こえる私は気配を感じ取れますし、音を耳で聞くことができますので、パーテーションの向こう側で、ふたりが小さな声でクスクス笑っているのが聞こえてきます。
「ぷーーっ!クスクス…」
私をびっくりさせようと企んで、楽しくなってしまい、教室に入ってくる前から笑ってしまっているのです。
パーテーションの足元は隙間がありますから、私からはすでにふたりの足も見えていました。
また始まった…、と呆れ気味になる私。
そーーっと、足音を立てないように教室に入ってくるふたり。
パーテーションの切れ目から姿が見えたところで、待ち構えていた私はろう児としっかり目を合わせ、
「何してんの?」
とわざと問いかけます。
「聞こえるのぉ!?」
「聞こえるよぉ!」
ふたりは私をびっくりさせようと、何度も果敢に挑んできました。
そのたびに、「聞こえるよ」と返事をした私。
「聞こえるんだー!!」
聞こえる私をなんとか出し抜こうと、ふたりは毎回真剣でした。

上履きを脱ぎ、抜き足差し足でコントの泥棒のように教室に入ってくることもありましたし、四つん這いになって這って入ってくることもありました。
その都度、「何してんの?」と私に冷静に諭されるろう児ふたり。
「ちぇっ」と言ったり、「くそー」と言ったり。
どうしても私をびっくりさせたかったようですが、6年間で一度も成功しませんでした。

なぜならふたりは、音を出していたからです。
服のすれる音、呼吸する音、そして足音。
どんなに小さな音も、聞こえる私には聞こえるのです。
ろう児なりに一生懸命音を出さないようにはしていたようですが、音はいつも出ていました。
特に息遣い。
ろう児が呼吸する音は、しっかりと聞こえます。
「聞こえるんだよ」
と何度も言いましたが、ふたりは飽きずに何度も何度も挑んできました。
わざと正面で待ち構えて、バチっと目を合わせてやると、ぎょっとした顔をして、ババババっ!とそのまま逃げていくこともあり、今思い返しても面白いやりとりでした。

授業中も、「リク、お腹鳴ったね」と言うと、びっくりした顔で、「聞こえるの!?」と嬉しそうに言ってきます。
私や担任の先生が「聞こえるよ」と言うと、とても嬉しそうにしていました。
「聞こえるんだぁ!」
聞こえる人がどんな音が聞こえるのか、分かろうとしている様子でした。
特に、体から出る音がほかの人にも聞こえるというのは、意外だったようです。
「これは聞こえる?」
ふいに訊かれます。
「何が?」
「今、体の中がぎゅうって鳴った!」
「それは聞こえないなぁ~~」
「ふーん、そうなんだ~」
自分の体から出る音を、私に聞いてほしかったみたいでした。

静かにプリントなどの課題をやっているときに、「…プ~~」と聞こえてきた時もあります。
「今、おならしたのどっち?」
「えへへへへ~~」
「も~~!おならはやめて!」
みんなで笑ったのも懐かしい思い出です。
デフファミリーであるふたりは、おならはにおいで気がつくことはあっても、音で家族に気づかれることがありません。
聞こえる学校で、自分の出した音に気がついてもらえることを、驚きつつも嬉しそうにしていたふたりの姿は印象に残っています。

難聴学級では、ろう児ふたり・担任の先生・私、この4人で授業を行っており、授業中でも音に関することを話題にしてきたのを、今でもときどき思い出します。

 

ろう学校に通いたかったコーダ

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「私はろう学校に通いたかった」

こう言うと、コーダ同士であっても「その発想は無かった」と驚かれる場合と、「それはあるかもね」的な意見が出る場合と、いろいろです。

私は本気でろう学校に通いたかった子どもでした。
聞こえるからダメだとは分かっていたのですが、耳の聞こえない人たちと一緒にいた方が気持ちが楽だし、自分らしくいられるし、手話も使えるし。
聞こえる大勢の人たちの中に自分がいるイメージが湧かなかったというのもあります。
とにかく両親と同じ学校に通いたいという気持ちが強かったのを覚えています。

他のコーダの話を聞くと、数は少ないですが私と同じように「ろう学校に通いたかった」と言うコーダはいます。
特に、聞こえない兄弟がろう学校に入学すると決まった時に、
「私もろう学校がいい~~~!!!!!!」
と駄々をこねたという強者コーダの話は、私の大好物です。
(私が知っている限りで2名ほどいます)

「あなたは聞こえるから、ろう学校には入れない!」

現実を突きつけられるコーダ。
大人になってからこのエピソードは語られるのですが、

「分かってるんだけど、なんとしてもろう学校に行きたかったよね(笑)」

なんとも愛おしいコーダたちです。
コーダにとって、ろう学校は特別な場所なのかもしれません。

私の両親はろう学校育ちです。
小学校・中等部・高等部。
計12年間、ろう学校という学び舎で、聞こえない仲間と過ごしてきています。
ろう学校を卒業した後は、皆、それぞれの道を進むのですが、結婚となるとやはり相手にはろう者を選び、ろう者同士で結婚するのが当たり前の時代だったようです。
ろう協と呼ばれる、聴覚障害者協会の会員となり、もう50年以上同じ聞こえない仲間たちと活動しています。
ろう学校の同窓会もいつも楽しそうです。
聞こえない仲間と会って手話で話せることが、父の元気の源です。

父は、ろう学校で2年間生徒会長をやっていたと聞いています。
なぜ2年間もやっていたのか、父に何度聞いてもよく分かりません。
「先生に言われたから」
と本人は言っていますが、それは私の知りたい理由とは違います。
なんとかして理由を突き止めたいと思いつつ、月日が経っていきます。
生徒会長をやっていたからなのかは分かりませんが、ろう学校の入学式・卒業式・運動会等、来賓として行事に参加して何度も参加していました。
ろう学校同窓会長をやっていたそうです。
卒業した後も母校に関わることができて、幸せそうです。
嬉しそうにろう学校へ、また同窓会へ出かける父を、私はずっと見てきています。
かつて、父がろう学校で学んでいた当時は手話禁止の時代でした。
口話法の猛特訓を受けた時代。
「先生が何を言っているか分からなかった」
いつも父は、手話でこう語ります。
それでも、「自分の学び舎はろう学校なのだ」と、誇りを持っているように見えるのです。
私には、それがとてもうらやましくて仕方がありません。
目には見えない絆というか、繋がりのようなものを感じるからです。
聞こえる世界になじむことができず、ずっと孤独を感じていた私にとって、それはジェラシーでした。

現在は、私は多くのコーダたちに出会え、様々な話をしたり聞いたりする中で、自分と似たような考えや、あるいはまったく違う考えに触れることで、孤独やジェラシーといった感情は薄れてきた感覚があります。

私にとってろう学校は両親の母校なのですが、自分のルーツに大きく関係しているので、とっても特別な存在です。
似たような想いを持っているコーダは、私のほかにも少なからずいるのではないでしょうか。

 

◆コーダについて◆
あくまでも私の経験と主観に基づいて、私なりに記事を書いています。
コーダがみんな同じような経験をしているわけではありません。
コーダの想いは様々です。どうかご理解いただけると嬉しいです。

 

ありのまま。

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体力勝負な日が続き。
「なんでそうなるの?」な出来事もありつつ。
日々はどんどん過ぎていきます。
反省もしますが、たまには自分で自分を褒めないと、つぶれそうなときもあり。
嫌なこと続きでも、ほんのちょっぴり嬉しいことがあると、なんとか生きられます。
「きっと私は幸せなのだな」
いつも、そこに着地します。

なんとなくではありますが、空気を読んで、バランスを考えて生きています。
やりすぎないようにしてるし、やらなすぎないようにもしています。
ただ、自分のことが後回しになりがちです。
見たいDVDがいったいいつ観れるのか。

扇風機とハロゲンヒーターが横並びで、どちらも必要な季節です。
睡眠は削れないので、どうやって時間を捻出するか。

最近、
「いずれ、手話は無くなってしまうかもしれないなぁ」
と感じることが多くなりました。
自分が見たもの、経験したこと、友人知人の話…。
切なく感じつつも、「これも時代の流れかも」と思っています。

5年後(2026年?)くらいには、どう感じているのかなぁ。