コーダ☆マインド

耳の聞こえない親を持つ聞こえるシオンが考える、コーダのことや手話のこと。

ろう学校に通いたかった聞こえる私

私が、「ろう学校に通いたかった」と言うと、たいがいビックリされます。

同じコーダでも、「その発想は無かった…」と言うコーダと、「私もろう学校行きたかったよー!」と言うコーダがいます。 

コーダの私がなぜろう学校に通いたかったのか

小学生のころだったかと思います。
「聞こえるから私はろう学校には入れないんだ」とは子供ながらに分かっていました。
ですが、私はろう学校へは行ったことすら無かったのに、ろう学校に入りたかったのです。
ただ純粋に、父と母と同じようにしたかったのです。
私の生活環境の中に、聞こえて音声で喋れる大人はいませんでした。
(父の母…祖母も一緒に暮らしていましたが、ほとんど喋らない人でした。この話はまた別の機会に…。)
なので私はほとんど声を出して喋ることが無く育ってきました。
家庭の中で音声で会話することが、全くと言っていいほど無かったのです。

私自身は耳が聞こえていましたが、聞こえる人たちにどうしても馴染むことができませんでした。
保育園に通っていたときの記憶はほぼありません。
残っている感情としては「楽しくなかった」ことだけははっきりと覚えています。
(保育園の先生たちがやさしかったことは覚えています)
なぜ楽しくなかったのか。
誰ともまともにお話をすることができなかったからです。
それでもありがたいことに、保育園時代の幼馴染と今は仲良くしています。
人生って不思議。

今考えれば分かることなのですが、家の中では音など関係ない手話の世界。
保育園に行ったらいきなり音声で喋る音の世界。
これを問答無用で行ったり来たりしなければならなかったのです。
よく嫌がらずに毎日通ったなぁと思いますが、それなりに他の子をまねしながら、ことば(音声日本語)を覚え、おそらくそれなりに喋れていたのだとは思います。
ですが、心が追い付いていませんでした。
幼心の私の本心は、手話で聞こえない子と喋りたかったのです。
両親と同じ、耳の聞こえない子と。
聞こえない子と手話で話せたらいいのに…とずっと心のどこかで思っていたのです。

耳の聞こえる私は結局、というより当然なのですが、地域の公立小学校へ通うしかありませんでした。
ですが、そのときの私が知らなかった事実がありました。

・当時のろう学校は『手話禁止』だった
・『口話(こうわ)訓練』がある

大人になってから知り驚きましたが、子どもの頃の私はそんな事実は知りませんでした。

聞こえることで「聞こえない世界」から切り離されたくない

ろう学校に行きたいと思っていたわりには、実は私はたいして手話はできませんでした。
それでもろう学校に行きたいと思っていたわけですから、どれだけ「聞こえる世界」に馴染めていなかったのかがうかがい知れます。
「聞こえる世界」と「聞こえない世界」では、「聞こえない世界」の方が私にとっては居心地が良かったからです。
子どもながらに「手話で話す」ことと「音声で喋ること」とでは、「手話で話す」ことの方が『楽』だと思っていたのです。
『楽』ということばだと逃げているように感じるかもしれませんが、自分らしくいられるという意味の『楽』です。

聞こえる世界で生きなければならなかった私は、ずっと苦しかったのです。
でも、自分がなぜいつも苦しいのかよく分かりませんでした。
聞こえない人と関わりたい!といくら思っても、それはずっと叶いませんでした。

聞こえる友人ができ、音声で喋ることが当たり前の学校生活をしていくうちに、私は手話のことなどどうでもよくなっていきました。
聞こえる私は「聞こえる世界」で生きなければならないのです。
聞こえる私は聞こえない親のように、「聞こえないから分からない」では通用しないのです。

けれど、私に「聞こえる世界」のことを教えてくれる大人は誰もいなかったし、音声日本語での話し方やコミュニケーションの取り方を教えてくれる人もいませんでした。
私の生活圏内には、音声でまともに話せる大人がいなかったのです。
見本をやって見せてくれるはずの大人がいないので、私はいつもどうしたらいいか困っていました。

・他の子が当たり前にできる音声の会話ができない
・手話の会話もできない
・「聞こえる世界」のルールが分からない

年月はどんどん過ぎていきます。
いつしか中学生・高校生になっていきました。

そんな中でも、「ろう学校に通いたかったなぁ」とぼんやり思う私がどこかにいました。
それくらい、私の心は「聞こえない世界」と切り離すことができなかったのです。

今考えると、「聞こえない世界」から離れることは、自分らしさを失うことと同じことでした。
ですが、そんなことは10代の私に気づけるはずもなく、20代の頃には私は自ら「聞こえない世界」を切り捨てました。
自分らしさも一緒に切り捨てることになった私は、20代の頃には手話が大嫌いになっており、手話はほとんどできなくなり、さらに自分で自分を苦しめる状況に陥っていました。

「なんでこんなに苦しいんだろう」

今思えば、つらく苦しい10代20代を生きてきました。
自分でも「よく生きてきたなぁ」と思います。
苦しいということを相談しようにも、ことばも話し方もよく分からず、自分の気持ちさえも把握できず。

それでもなんとか生きてこれました。

令和のこの時代、私のようなコーダがいないことを願いますが、もしかしたら日本のどこかにまだ、私のようなコーダがいるのかもしれません。
どうかあきらめないで生きて欲しい、そう想いを込めて私はコーダの記事を書き続けたいと思います。

<この記事は2020年5月に書いたものです>