コーダ☆マインド

耳の聞こえない親を持つ聞こえるシオンが考える、コーダのことや手話のこと。

コーダの私の思い込み

思い込みその1:耳の聞こえない人は、みんな全然聞こえないのだと思い込んでいた

コーダの私が子どもの頃に思い込んでいたことがあります。
思い込みというか、無意識にそういう風に決め込んでいたというか。。
今考えたら、ちょっと意味不明なんですけど。

私の両親も両親の友人のろう者も、日本語を音声でしゃべることのできないろう者ばかりでした。
なので、発音は悪くとも、音声で喋るろう者と会った時は本当にびっくりしました
「なんでうちの親と同じ聞こえない人なのに喋れるんだろう…」
と全く理解ができませんでした。

そして、だんだんと分かったのです。

「少し聞こえる人もいる」

!!!!

「少し聞こえるって何?!聞こえない人って聞こえるの!??」

もう、何言ってるんだって感じですよね。
聞こえない人の聞こえ方は人によって違うということが、だんだんと分かるようになりました。
そして、耳の聞こえない人でも手話ができない人がいるというのは、子どもながらに知っていました。
「なんで聞こえないのに手話ができないんだろう」
と、不思議に感じていたのですが特に深く考えることもしませんでした。
あるとき父に、
「あの人は聞こえないのになんで手話ができないの?」
と聞いたことがあります。
「いろいろ/人/いる(訳:いろいろな人がいるんだよ)」
そう答えが返ってきました。

聞こえない人の生い立ちは様々で、手話を使わない聞こえない人がいるということは、手話を学び始めてからようやく分かりました。
むしろ、手話を使わない(使えない)聞こえない人の方が多いということも学んで知りました。

小学生の頃、障害者たちが集って電車旅行する企画があり、何度か参加をしました。
電車がまるまる貸し切りという古き良き昭和の時代。
その電車の中で、耳の聞こえないおじさんに出会った私は手話で思い切って話しかけました。
ですが、そのおじさんは「できない」と手をぶんぶん横に振るのみで、手話が通じませんでした。
「おじさんも手話ができたらお話できたのに…」
耳の聞こえない人は私にとって身近に感じる存在なので、そのおじさんと話がしたかったと今でもときどき思い出すます。
子供の頃の切ない思い出。

こんな風に子どもだった私がこう考えてしまったのは、やっぱり自分の基準って自分の家族なわけで。
「耳が聞こえないのに手話ができないなんてもったいない!!」
と思っていました。

思い込みその2:ろう者はろう者としか結婚しないと思い込んでいた

両親と、両親の友人のろう者夫婦ばかり見てきた私の思い込みはまだあります。
ろう者と聴者の夫婦がいると知った時は、正に晴天の霹靂。
「片親が聞こえるってどういうこと!?」
とまったく理解不能でした。

・例えば、片親が聞こえる
・例えば、親は耳が聞こえなくても音声で喋れる

それを知った時に、本当にうらやましく感じてしまいました。
私は子供の頃、手話での会話もろくにできませんでしたので、

・手話でなんでも会話できる

それを見た時もうらやましく感じました。
私は両親に何かを伝える時に、通じなくて通じなくて大変な思いばかりしてきたので。
…そうなんです。
私には、自分以外の人はみんなうらやましくて、みんな幸せそうに見えました。

思い込みその3:私以外の人はみんな幸せだと思い込んでいた

振り返ってみると、なんと悲しい子ども時代を送ってきたんだろうと思います。
自分ばかりが不幸のどん底にいるみたいな気持ちでした。
(割とこういうタイプのコーダは多いのだそうです)
しかし、そんな気持ちだったことは親には話せませんでしたし、誰にも話すことができないまま(話したところで分かってもらえないまま)、私は大人になっていきました。
もしも身近に相談できる人や、分かってくれる人、アドバイスをくれる人がいれば一人で悩むこともなかったとは思いますが、私の場合は誰もいませんでした。
コーダに必要な相談相手は、「ろう者」「聴者」のどちらも必要になると私の経験から考えられます。
コーダの先輩がいればベストですが。
コーダは「聞こえない世界」と「聞こえる世界」の両方を知って生きなければバランスがとれなくなってしまうのではないでしょうか。
「聞こえる世界」に偏ると手話が分からなくなり、聞こえない人たちのことが分からなくなります。
そしていつしか大切な自分の親と意思疎通ができなくなってしまいます。
私がそうでした。

かといって「聞こえない世界」に偏ることは、一日のうちの大半を「聞こえる世界」で過ごす聞こえるコーダには不可能です。
耳で聞き、音声で喋り、聞こえる人たちに合わせて生きなければなりません。
親以外のろう者と手話で話す経験はとても重要だとも思います。
親にも話せないことや話しづらいこと、そして聞こえる人じゃなくて聞こえない人にしか分からないことがあるのです。

もしも親と話さなくなり、親以外のろう者とも接することがなくなり、いつしか手話ができなくなったコーダ(これは、私のことですもありますが)はどうやって親と話をしたらいいのでしょうか。
肝心な時に手話ができない自分にコーダはショックを受けます。
自分を責め、親を責めます。
時々「ろう児から手話を奪わないで」という文言を見かけますが、それを見るたびに「コーダから手話を奪わないで」と、私はいつも思うのです。

コーダにも手話は必要は必要です。
大切な親と話せる大切なことばが手話なのです。

聞こえない人からは「聞こえる世界」が分かりにくい。
聞こえる人からは「聞こえない世界」が分かりにくい。
両方の世界の間を行き来するコーダ。
時にはどちらの世界も居心地が悪いと感じるコーダ。

コーダの感じる生きづらさがあります。

コーダの複雑な気持ちはコーダ同士でしか癒し合えない所以は、このあたりにもあるのかもしれません。

<この記事は2020年5月に書いたものです>