やっぱりコーダは悩むのだ。
手話が苦手なコーダもいますが、手話が大好きなコーダもいます。
大好きというよりは、自分を表現できる言語が手話。
そんなコーダもいるのです。
第一言語が手話、となるでしょうか。
第一言語…?
分かりにくいこの辺りを少し書きます。
日本人の母国語は日本語です。
日本の公用語も日本語です。
日本人のほとんどが、日本語を使って生活しています。
しかし、ろう者は手話を使って生活しています。
私は両親ともろう者なので、母語は手話になります。
私の場合は、ちょっとややこしいのですが、母語は手話です。
母語は、子どもが生まれて最初に学ぶことばという意味で使われることが多いそうです。
しかし、手話をきちんと覚えないうちに、聞こえる私は日本語の方が優位になっていきました。
今では、私の第一言語は日本語です。
第一言語は、最初に学ぶことば、自分が一番得意なことばという意味でつかわれるそうです。
聞こえる私は、日本語を使って生きています。
日本語で話すことがメインです。
手話で話す時間よりも、日本語で話す時間が長いのです。
現在、手話を習得した私は、手話で話しているときの方が居心地が良いと感じます。
手話を見ると安心します。
街中で手話をしている人を見かけると、ホッとするのです。
やはり聞こえない人の中で育った私は、ふるさとが聞こえない人たちのいる「聞こえない世界」なのだと思っています。
「手話で話す方が楽」というコーダは割といます。
「手話で話せたらいいのに」と願うコーダがいます。
手話でもっと自由に気楽に話せたらいいのにと思っているコーダは、そのやりきれない気持ちを抱えながら生きています。
コーダが家の外で手話を使って話せる場所は、ほぼありません。
聞こえる人から音声で話しかけられた時に、手話で返事をしたらどう思われるでしょうか。
聞こえる人に、手話でいきなり話しかけたらどう思われるでしょうか。
そんなことを考えているコーダもいるのです。
ろう者の悩みと似ています。
「もっと自由に手話で話せたらいいのに」と。
しかし社会は聞こえるコーダには厳しいのです。
「あなたは聞こえるのだから、声で話せばいいじゃない」と。
聞こえるコーダには手話で話す権利は無いのでしょうか。
聞こえるのだから、音声で話せるのだから、手話は使うなということでしょうか。
聞こえるコーダは、普段手話を使ってはいけないのでしょうか。
私たちコーダの親はろう者です。
手話を使って話すろう者です。
私たちコーダはろう者に育てられました。
日常で手話を使い、生活してきました。
私たちコーダは音声でも話しますが、耳の聞こえない親と話すとき、私たちの声は親には聞こえません。
コーダにとって、手話は聞こえない親と話すための大切なことばです。
親子をつなぐ、かけがえのないことばなのです。
ろう者が手話をするように、コーダだって手話をします。
そのことは世間ではあまり知られてないように感じます。
知られていないというよりは、手話を使うコーダの存在は認識されていないかのようです。
まるで、透明人間のように。
ろう者から生まれてきたのに。
ろう者の家族なのに。
聞こえるという理由で、コーダは聞こえない親と分離されてしまいます。
コーダだから感じる切なさがあります。
コーダしか感じない切なさがあります。
手話ができないコーダも悩みますが、手話ができるコーダも結局悩んでいるのです。
悩む内容が違うだけ。
しかし、悩んでも仕方がありません。
「手話で話したいな~」とか「今日は声出すの面倒くさいな~」と思ったとしても、声を出し、耳を使って、今日もコーダは生きています。
コーダの悩みは尽きないのでしょうか。
私はもう少し、コーダのことを分かりやすく説明することばを、これからも探し続けたいと思います。
※コーダでも親が手話を使わない難聴者の場合は、コーダも手話を使わない場合がほとんどです。
※母語・第一言語のあたりは、人によってとらえ方が違うので、あくまでも私流です。